昭和51年6月30日  交通安全悪疫予防大祈願祭

( ? )蚊帳で、丸日顔を作りましてね、そして、お宮さんにお参りをして、それをこう、3遍括って拝んでおくと、一年間、無病息災。だから誰でもその、うう~ん、お参りをして、(枠売り?)を致します。やはり、ええー、辛抱からきたもんでございますから、ああー、まあ、半年のお詫び、ええーゆあば、ここでは、お粗末、御無礼としか申しませんけれども、いわゆる、(ついつがれを)足ろうて頂く。足ろうて頂く、そして極まった心で、という事は、又、おかげの頂くように心の状態を、作ろうというのが、このおおばらい式の、まあ、願目だったと思うのです。けれども私は、やはり、おおばらい式と言うものは、名前が変わっても、早い罪もお渡ししたい、ここでは、とり明け、うう~ん自動車の、言わば、交通事故が大変この頃、多ございますので、交通事故の、いわゆる、交通安全の大祈願祭と、まあ言って、ええーお祭りを、上げさせて頂くようになりました。こちらへ参りまして、もう9回のお祭りが仕えられましたけれども、うう~ん、だいたいその、お願いをして頂きたいと言う人達が増えまして、お参りはしないけれども、ええー皆さんが、御信者さん方に託けられて、(祓いつもの?)、それから車のあるところは車のお祓いをお願いしますと言うて、ええーもう年年歳歳それが増えて、お願いしとったけれどもやっぱり事故におおたといったようなものがない証拠です。甘木の初代の先生にまあ当時は、おお祓い式というのがあっておった。そのおお祓い式を、いわいる金光法廷ではないと言う話は当時からあっておった。それで親先生が、「ああしてお祓いをしてもろうてから、やっぱ効果があるでしょうか?」と「それは、祓わんよりかはよかろう」とおしゃったそうです。けれども、甘木の初代が、祓わんよりよかろうとおしゃった事は、大変縁のある事だと思うのです。たった祓わんでもよかろうと、(笑い)祓うたから助かった、祓わんから助からなかったという事にも繋がるのですからね。もうその辺のところは、もう、一分一厘の違いで変わってくるのですから。久留米の初代は、「神様の、言わば、人間の一握りといえばこれだけだけれども、神様の一握りといやーどれだけあるか分からん。言うならば、あの「しでのさやじのさやさやに?」それこそすがすがしい、あの、おおーかみ錆びたお祓いを、まあ受けさせてもらう。それがいや、人間の一握りならこれだけだけれども、神風という事になってくると、どの位のおかげが頂けるか分からんのは、私共が9年間このおお祓い式ではない、ええーこの祈願、祈願祭をです、交通安全の祈願、ね、又は悪疫予防の祈願をさせて頂いて、これは命名実感する事であり、信心のない人達にでも、それがだんだん信徒していっておるという事実でございます。私は金光教点でないというのは、ただ祓うてもろうたからおかげを頂いたという事にとどまらず、そこからの信心がなされて来るという事が、そこからが金光教の信心の本来の姿だと、こう。ね、だから祓うてもろうておかげを頂いた、おかげを受けたというのは、祓わんよりもよかろというおかげであり、ね。それでもやはり、助かるか助からないかと紙一重のところを例えば、祓うてもろうたおかげで助かった、というようなおかげが受けられる。ね、だからそういうおかげが受けられるという事だったら、これは神道でいうおかげ観とほとんど変わらない。けれどもそれから先が違うのです。「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」というのがそれである。皆難儀な問題を持ってくる、そしてお願いをする。心の状態がおかげの受けられる状態でなくても、神様が願う氏子にまずおかげの印を見せて下さって、そして神様が有り難いなと分かったところで理解申して聞かせ。そこから金光教本来の信心が進んで行くのでございます。ね、言うなら、金光教の本来の信心の、おおー真の姿というのはどういうことかと申しますと、今朝からの御理解にも頂きましたが、ね。この方の事を生神、生神というが、ね、この方ばかりが生神ではない。皆もそのようなおかげが受けられる。この方がおかげの受け始めであって、生神とは神がここに生まれる事だとおっしゃっておられます、ね。だから金光様の御信心はどこまでも、言うならば、そう生神を目指していくという信心になるのでございます、ね。ところがなかなか、ね。結局、ご利益だけを目やけという事になりますと、言うなら、何々様も神道でいう「わくふりも?」おお祓い式も同じ事。今日のお祭りには、皆さんが普通の月なみ祭とか御大祭とは違ったお祭りがありますよね。祓いの主が、あの、先に、あれは言うなら、一つの信義であります。ね、あれは神道(ゆかりの?)やはり、ええー形式ですけれども、ね、やはりええー少しは変わらにゃいかんと思いますから、そこんところだけは取り入れてここではお祭りを仕えます、ね。それで、皆さんが沢山の車とか、又(祓いつもの?)おおー(かれい人の中に押さえて、御祈念をさせてもろうて、それであれを普通では、今晩はあれをあのー(ぬさも?)それから(祓いつものも?)焼く又信義がありますけれども、そこは又私は金光教的ではないと思うから、あれを私は又、一月位は一生懸命御祈念をさせてもらいます、ね。そしてけがでもさせてはならん、事故でもあわせてはならん、悪い病気にでもかからせてはならん、まあそういう一つの責任感のようなものを感じますから、ね。これは、焼くのではない、祓うのではない、やはり私は、私の心の済むまで、又今日をさかえに御祈念をさせて頂くのでございます。その辺のところが金光教的です、ね。今日私、ううん、朝の奉仕をさせて頂いてます時に、ええー宮崎の黒木さんという方から電話がかかってまいりました。「もうー先生、先日は、もう大変な、広大な」とこれを繰り返し、繰り返し言われて、「おかげを頂きました」と言われるのです。宮崎延岡地区には、ずいぶんこちらの信者さん方がおられまして、あちらでは、ああー十日に一遍づつの割合で、おかげの泉勉強会というのがあっております。皆病院に入院して、ベットの中におる人でも、あのおお祓いを、もうそれこそ前、あっ、おお祓いではありません、おかげの泉を繰り返し読んで大変なおかげを頂いております。もう本当にもう不思議なくらいなおかげを頂いております。おかげの泉の扉の所に書いてあります様に、少なくとも十回は読んで下さいよ、と。ただ週刊誌や雑誌を読む様に、ただ読んだというだけではいけん、言わば、読ませて頂くのだと、ね。しかも、二編読めば二編、三編読めば三編たんびに新たな事が分からせてもろうて、おかげを受けていく。宮崎あたりからしげしげとお参りが出来ませんから、月に一回を皆が、ああーだいたい月なみ祭、ええー、一日の月なみ祭に皆さんが泊りがけでお参りになります。昨日もその黒木さんという方は、あちらのトヨタの自動車会社の、おおー(お茶を飲まれる)セールスをなさっておられる。まあ大変この方はもう
いろんな意味でおかげを頂いて、もう合楽に来るようになったからもう運命がそれこそ変わってしもうたと言うくらいにおかげを頂いておる方です。この頃から、もう神様のおかげで新しい立派なお家が出来ました。こちらに4~5日前(やおつり?)が出来たというてお届けがあっておりましたが、今日のお届けは、それこそ「広大なおかげを頂きました、本当にもう、広大なおかげを頂きました」と繰り返し、どういう広大なおかげを頂いたかと思うたら、ね、7月の一日にはお参りをされて頂くつもりで自動車に乗らせて頂いたところが、どうも調子が悪いと、そこでその自動車を整備に出しました。そしてその会社の車を借りて、商売に出た、商売というか、外光に出られたと言うんです、ね。ところが本当にこちらがいくら用心しておっても、向こうの方から災難というのはやって来るんですからね。その前方からも、もうあっという間に居眠り運転がやって来たと。もうそりゃ危ないと思った瞬間、正面衝突。もう両方とも、車もめちゃくちゃだそうです。けれどもまあ、主人はかすり傷一つ負わずに、ね、先方の方もけがも無しにおかげを頂いたと。そこで主人がすぐ申し、あの申しました事は、ね、「おお祓い式の時に頂いておった交通安全の御神米を車にお祭りをしてあるのとしていないのは、こんなにも違うもんだろうか」と言うのです。さあそれから(あただに?)365日、今日までで5日ですから、364日間という間、無事氏子でおかげを受けておったという事が、もう改めてそれこそ泣き泣きお礼を申し上げたとい言うのです。360、ええー4日という事、ね。言うならば、その御神米をお祭りしておるといない、お祓いを受けたと受けてないと、やはりそのくらいの違いでやはりあるわけです、ね。真に有り難たしと思う心すぐにみかげの始めと言うが、金光様の御信心はどこまでも、いよいよ真に有り難いというこの有り難いというものを願いに求めてから、信心を進めていくというところが金光教の本来の、それは取りも直さず、親心は神に向こうて行く、親心が生き神へ向こうて一歩一歩前進していくという意味なのであります、ね。「それから親先生、又その後が広大なおかげでございます」と言われるのです、ね。宮崎にトヨタ自動車が、の、会社の支店が出来て、私のほうが勤めるようにならせて頂いて、もう始めて昨日はなんと、その外光にそれから出られてから、車が26台売れたと言うのですから。もう本当にもうビックリしておりますとこう、ね。どうですか?360、とにかくおかげをおかげと気付かなかったり、おかげをおかげと思わなかったりという事は、その反対になることが分かりますね。おかげを受けておるという実感が、しかも300、364日間、毎日毎日乗らせて頂いておるが、それこそ事故一つ起こさないですんだという事が、ただ、まあおかげをおかげと言うてはおるけれども、実感としてこういう(御しごう?)の中に日々あったんだ、しかも360何日間がそうなんだと分かった時に、それこそ泣く泣く有り難いその御商売が出来たというわけです。そしたらなんと、(24名?)、今度その壮年会に参拝されますから、本人からそれを聞かせて頂いたら、もっと実感的に広大なおかげであるという事が、ああー分かるかと思います。もう電話の向こうで分かるんです、その感動が。有難いね、おかげを頂いたね、と。いかに真に有難いと思う心がおかげを呼ぶかおかげが開けるかという事が分かるじゃないか。ただ、もう主人もビックリしてしもうてから、(笑い)ね。けど、もうそれこそぼう然とするようなおかげであったと言うのでございます、ね。どうでも信心させて頂いて、おかげをおかげと実感する、そこに信心がいり、修行がいり、ね。神様のお心が分かってこないと、おかげをおかげと感じなかったり、又はおかげが、ね、反対に、ね、まいりよるばってん別に大した事もなかという事にまでなりかえないわけです。丁度私も感動してお届けをさせて頂く、本人も4日の日に又おかげを頂くという、その電話を切らせて頂いた頃に、丁度お参りになっております、ここの指出、この村内なんです。の「やよいさん?」というおばさんが熱心に参って来ます。お祭りに又お参りさせてもらいますけれども、早いつもりで先にお届けさせて頂きましたと言うて、丁度参ってこられて、もうとにかく「柳さん?」今電話がかかってきてこうこうじゃったがの、と言うて話しましたら、「先生そりゃもうほんなこってすばい」ち。私でもそりゃあんた、そげなんおかげ今日始めて聞いたと言うて聞いて、言いよった事ですけれども、先日から息子さんがダンプカーに乗っておられる。息子さんは、その神様とか何とかはあんまり言わない方だけれども、おばあちゃんが必ず御神米をあの、おおー自動車にお祭り、まあ、頂いていけと言うて言われる。それでも、丁度私があのー御神米が、中、無くなりとっていましたから、御神米の御神紙だけを、あのーその自動車にお祭りして、まあ用心して行きなさいと言うたところが晩に、そのー帰ってこん。ところが、晩遅うその警察からというて電話がかかって来た。もうビックリしましたと。ところがね、もう今日はばあちゃんおかげを頂いたばいっち。もう本当に一分早かか遅かかならばね、本当に子供をひき殺すところじゃったっち、私が。ところが他の人が、その跳ねた、その子供さんが、そのこちらが運転しておったダンプカーの下の方へ跳ね飛ばされるようなその事故が起こったと。だからその証人で今警察で、その、おおーにおるけれども、まあ、あの遅なっても心配するなという電話がかかって来た。いやーそげなんおかげを頂いておってからあんた、今どんそげなん事いうてからという事でしたけれども、ね。それこそ信心はなかってもまあ、御神米、交通安全の祈願を込めて頂いておるというだけでです、ね。そういうおかげ、祓わんよりもよいというのはそういう事なのです、ね。それだけではない、祓うて頂いて事済んだ事は有難い、それからの信心が大変なんだぞ、それからの信心が金光教の信心なんだぞ、と甘木の初代は教えておられるのであるのと私は思います。今朝からの御理解18、言わいる、ね、此の方の事を生き神生き神というけれども、皆もそういう同じ様なおかげが受けられるのだと。生き神とはここに神が生まれるという事であって、ね、皆もその様なおかげが受けられる。だから皆もその様なおかげを頂かせて頂く、という願いを持っての金光様の御信心でなかならければならないというわけになります。御神訓に「祈りてみかげのない時は、これぞ不思議なることぞ」と、ね。みかげの、祈りてみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと、ね。祈っておかげが受けられない、霊験が受けられないということはないぞと。祈っておかげを受け、ああー不思議なおかげと言うけれども、ね。こういう、言うなら365日を改めて思うて、毎日このようなおかげを受けておったという実感が、言うなら感動の一日であった、その一日が商売の世に買ってなかった自動車26台も売れるといったようなおかげを呼ぶと。ね、そういうおかげが受けられるのだと。だから受けられんのは、おかしいぞ、不思議だぞと。自分の心を思うてみよと、なるほどおかげの受けられない本がここにあったという事を分からせて頂くのがお道の信心です。信心のある、おかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと。不思議じゃない、当たり前の事なんだと、ね。祈っておかげがないならば、もうこれぞ不思議なる事であるという大不思議を、私共が感じさせて頂いて、これはまだ、私共の信心が足りんのだ、改まりが足りんのだ、一心が足りんのだと、そこからいよいよ生き神に向かっての信心をさせて頂くわけです、ね。今朝から、ええー(さくやり?)御倉庫へ出てまいりました。そしたら又こちら明明と上がついて、そこに、あの、皆椅子がかりで、まあ一生懸命、ええー御用を頂いて、秋永先生達が兄弟3人、それから麻生さん、それから戎浦さん、それから光明と、おおー言わゆる今度の壮年大会の、まあ準備に覆われるような状態のところでございました。印刷に出すと言いよったのをもう家でやろうと言うような事で、まあ夕べ、もう遅うございましたけれども、まだとても「いっときんど?」で済むもようでございませんでしたから、私休ませて頂いたんですけれども、休ませて頂いたけれども、何故か知らん心にかかってかっかてならん事が一言二言あるんです、ね。あの心にかかっておるという事はいけません。私は、もう毎日毎日が心の中に「平生心?」、言うなら安心、喜びの心を持って休ませてもらう。どうもあれが不安でたまらん、ならば一晩中でも御神前に座って、この不安な心という、落ち着かない心を、ひっかかっておるものが取りのぞかせて頂けるようなおかげを頂かなければ、いつどういう、言うならお届けやらお願いがあるやら分からない。これは皆さんがおかげを頂くというても同じ事です。それから又出て参りまして、御神前に出らせて頂いた、もうそこに座ったとたんに頂くんです。今頃咲く花に、よど菊というのがございます。よど菊を一輪頂きます、紫のよど菊です。もう私はもうそれを頂いたとたんに、はっ、私の気持ちがすきっーといたしましたから、もうそれから、ただ簡単にお礼だけ申し上げて、休ませて頂いた、ね。よど菊というのは、ちょっと皆さん書いてみて、三ずいへんに定まるという字が書いてある。あれは私はえど菊ち言いよったが、えど菊じゃない。よど菊です、ね。三ずいに定まると。菊というのは、もちろん合楽の信心という事でしょう。三ずいというのは、自然とか又お恵みとかと頂いております。三ずいへんに定まる、おかげという事に決まってるじゃないですかと神様が言うて下さったと思いました。三ずい、おかげ、おかげだぞとそれは、おかげという事に定まっておるじゃないかと。何が心にかかるものがあるか、なにが心配がいるかと神様が言うて下さった。言うなら、自分の心の中に菊の心を、合楽の信心の、言うならば根本の様なものがいつも心の中にあれば、何が気にかかる事があるか、何が心配なる事があるかと言うのです。ここがね、日頃信心が出来とらんと分からんとこです。それはおかげになるというのは、私が心にひっかかって、あれが私の思うようにおかげを頂くという意味じゃないのです。それは、ね、右になろうが左になろうがおかげじゃないかという事です、ね。三ずいへんに定まると。もう金光様の御信心を頂いておって、どういう事柄であってもお取次を頂いて、お願いをしたなら、おかげの方にしかならないという事です。それは、なら自分の思うようになるという意味ではなくて、それこそそれが、夢にも思わなかったようなおかげに転回していく事があるかもしれません、自分の思いとは逆な事になって来るかも分かりませんけれども、その逆なところが神様のおかげだぞと。右になろうが左になろうがおかげである。もう日頃分かっておるようであっても、ちょっとした問題がここにひっかかっておると、やっぱり( ? )、ね。もう座ったとたんに神様はよど菊というお知らせを下さった。私の心は右になっても左になっても、ああー本当に神様のふところの中で起きて来る出来事なんだという確信が生まれて、心が引っかかる事のない、「よろい?」ない心で休ませて頂く。何を私がそのようにスッキリするかというと、何十年間という体験からです、何かが起こったたんびに、ね。それを生き神への、言うなら一段と信心を進めさせて頂く事のための、手がかりにしてきておるという実証があるからでございます。ね、金光様の御信心はここなんですよ。お祓いをうけときゃおかげを頂く、ね、ただ(くを?)付けただけでもおかげを頂く、ね。だからここまではです、本当に力のある人が祓うたならば、やっぱりおかげを頂くでしょうね。祓わんよりかよかというおかげが受けられる。祓わんよりおかげを頂くというおかげは、先ほど実例を持ってお話しましたようにです、ね、それこそ、そこの「やなぎさん?」の息子さんの場合なんかは、一分早かっても遅かってもというようなおかげになって来ておる。その日、たまたま御神米をお祭りしたその日の出来事であった。本当におろそかには出来ません。ここまでは、んなら、おお祓い式、あの今日したそのおお祓い式の言うならば、ああー願い、願目という事は、そこまでのおかげなんですけれども、信心を頂かせて頂いて、それから先の信心を頂く。言うならば願う氏子におかげを授けてもろうて、願う氏子におかげを授けて、そこからは言うなら理解申して聞かせて此の方の道は、そう生き神を目指す事なんだと。祈ってみかげのあるという事は不思議じゃない、当たり前、当然の事なんだと。おかげを下さろうとする神様、おかげを頂きたいと願う氏子、ね。この氏子と神様がやりたい、もらいたいものが合、ここで祈っておかげにならないはずがないけれども、もしこれが、(手をたたかれる)っと音がでないならばおかしいんだぞと。ここに何か障害があるのです。(手をたたかれる)音が出らない、出らないはずが、ここにこういう様な物が、それを自分の心の中に発見していこうというのです、ね。祈ってみたけど、ね、ない時はもうこれが不思議な事だというような信心に、私は進ませて頂いたらおかげの受けられるのは、これは私共の改まりが足りんのだ、信心が、ああーまだ分かっていないのだという生き方。その生き方が神へ向かって進んで行くという事になるのです、ね。皆さん本当に、あのーこのおお祓い式なんかん時にはね、私は本当に、もう一番合楽時限活動に参画させてもらう一番チャンスだと思うのです、ね。もう(しっとり?)の限り無しと。例えば、今日中村さんがお参りしておりますが、ね、ええー久留米のタクシー会社に勤め、(ほうこん?)ですかね、に勤めておられます。もう何十年になりますかね。えっ?20年間あの運転、あのーになっておられますけども、まだ一回も事故がない。あそこの宅祭りに参りますとね、毎、毎、毎年、毎年その氏子の表彰者がずっーとだしにかかっておる。20何年間、ね。もう本当に言うならば、おかげを頂いておるという実感が、今日のお話じゃないけども、20何年間そういうおかげの中にあるんだという事を気付いて、それがお礼の信心ともなったら、どういう素晴らしいお徳と力を受けるだろうかと私は、改めて思うのです、ね。ところが、おかげを頂いておかげの中に浸っておるとです、もうそれが当たり前と思わんけれども有難いという心がだんだん薄らいて来る。もし例えば自分がです、こうしておかげを頂いておるんであるから、会社に100台なら100台のタクシーがあるならば、その100台分のお供えは自分がさせて頂いても、その100台分の交通安全、ね、交通安全祈願の合楽の御神米をお祭りするくらいな信心に進んでいったら、素晴らしかろうと思うのです。私を見て、私が20何年間一回も事故に、そりゃーやっぱ私金光様の信心をしよって、合楽の神様のおかげを頂いておるからと私は、本当にそれを言わずにはおれないほどしの信心が、湧いてこなければいけないと思うのです、ね。例えば、ああー皆さん、ううん文男先生、それから、ああー日田のくにしさん、ね。それから(くのやさん?)、(ふきのさん?)もう沢山な、事で毎年毎年、もちろんあのおかげを頂いておる人達ばかりですから、もちろん御初おの方から託っているわけでしょうけれども、沢山の人の、言うならばおかげを頂いて、言わいるそれはね、まあおかげと実感しておるかしらんか分からんけれども、やっぱりしとけりゃしとくがたあろうというぐらいの事であろうけれども、やはり氏子のおかげを頂いておるという事実が、なら今年もどうぞお願いしますという事になるのです。そう言う、なら合楽の一つのごひれいをね、人に伝えていくも絶好のチャンスではなかろうか、期待ではなかろうかと思うのです、ね。それにはまずです、私共が本気でおかげを頂いておるという実感がね、私はこれに伝わってこなければならない。宮崎の黒木さんではないですけれども、ね、改めて364日間の御神号の中にあった事を気付かせてもろうた。始めて、お祭りのしていないお店の、会社の車に乗らせて頂いたとたんに自分が起こしたのではないけれども、向こうの方からやって来る災難にぶつかったけれども、おかげでおかげを頂いたという実感がね、こう言わいる感動になって湧いてきた、ね。その感動になる事を真に有難いと思う心がすぐにみかげの始めというおかげが、次の(能でかって)前代身分といわれるような、ね、一気に26台の車を販売する事が出来たというおかげに繋がって来るのです、ね。だからここまでは、ね、言うならば、まあ今までの昔からやってきたおお祓い式と変わらんけれども、それから先の信心がです、言わゆる我が心が神に向こうていくという信心。これを言うならば、おかげの受けられんのはこれは不思議な事だとそこに一大不思議を感じて、いよいよ本当の信心を求めて行くならば、そこに本当の物が与えられる、真の物が与えられると、ね。そこから真のおかげの転回となって来る。そういう生き方を目指す事が、我が心が神に向こうていくのである、ね。生き神様を目指して信心をさせて頂くという金光教、言うならば、本来の信心の姿といものを、そこにはっきり感じさせてもらえる日々でありたいと思うのでございます、ね。どうぞいよいよ、おおー明日、夏の、ええー夏期信行が始まります。それは、ああー一時の、まあ言うなら(夏にさかりよう?)というて、一時の御祈念に合わせて皆さんが、もうそれこそ合楽独特の、もうそれこそこのお広前が割れるような勢いで、ええー神様へ向かわれる、ううー修行が行われます。一月間です、日頃お参りが出来んでも、この一月間だけぐらいは、もう本気で信心修行させて頂こう、ね。そして信心修行の有難さを身に付けさせて頂こう。言うならば、おかげを頂く信心から、言うならば生み出す信心を極めさせて頂こうという信心、言わいる本部で言われておりますところの、(御取次成就信心生活運動のしんはっそく?)。それは頂く信心から生み出す信心へ、ね。頂く信心を例えば、おお祓い式的おかげであるとするならばです、それから先の信心が生み出していく信心、金光大神を目指していく信心。そこから生み出されるところのおかげを頂いて始めて金光教のおかげを、信心のおかげを頂くという事になるのです、ね。明日からの一つ、ううー夏期信行をね、共々におかげを頂きたい。ええー来年が10年の祈念のお祭りになります。それで、ええーあのおお祓い、ええー162ヶ条の神界、神訓、御理解というものを私が夏の信行だけに説かせてせて頂きます。言うならば、ミニ御理解とでも申しましょうか。その4、5分間でお話が出来る、小さい、短い御理解を皆さんに聞いて頂いて、そして毎日あの(とばん?)に掲示させてもろうて、それが9年分貯まらせて頂いておる。もうしばらくで、まる2回通りをおかげ頂く事になる。その2回通りが、終わった時点で、ええー改めてこれを、おおー言うならば教祖のみ教えの新解釈とでも申しましょうか、ね。言うなら、キリストでいう新訳聖書に、まあひってきするような(おしょうもつ?)が、記念出版になって出るという、だいたい予定になっております。そういう御理解も頂かせて頂く、又は修行の楽しさ、修行の有難さも身に付けていくという信心をいよいよ、ね、極めて行きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。ええー4日の壮年大会には、昨日私、あののぞかせて頂きましたら、300名あまりからの案内を出しております。そん中に、100名が申し込みがあっております。もう本当に思いがけない方達が、参画しておられます。そしてほらあの人がおらんじゃんの、あの人がきとらんじゃんのっち、もう当然(れいかい?)には参加しなければならないという人が沢山参画していないんです。不思議な事です。ううん、結局、我が心が神に向かうというような事を信心と分かっていない人達だと思うんです。まだ今からでも遅くはないのですから、どうぞまだ申し込んでいない方は申し込んで、ええー35歳以上の(だいし?)の方達の大会。伊万里の竹内先生の、おおーお話を頂く事になっております。ええー又、(誠実を?)信心の研修、ああーいろんな行事がございます。もちろん最後に私のお話も聞いて頂きます。そういう、ううーあさって10時から、10時からですかね?はあー9時からの受け付け、そして10時から、そしてもうほとんど終日ですね。そして最後に会食などもあるようになっております。どうぞよろしくお願い致します。